「芳野城を守る会」の目的
菟田野 芳野地域には限界集落があり、高齢化が著しく進んでいる。そこで芳野地域を活性化させ、交流人口を増やすことが大きな課題である。その解決法として下記の目的を設定した。
- 芳野地域の貴重な史跡である芳野城を整備することにより、観光資源として活用し観光客を増やす。
- 芳野城に関わる歴史や史跡を知り、守る取り組みを行い、地域住民の連帯意識を高め、郷土愛を醸成する。
芳野城について
芳野氏について
芳野氏は、秋山・沢・芳野の「和州宇陀三人衆」と称される武家集団で、この芳野を中心に鎌倉から戦国時代にかけて活躍した在地武士。鎌倉時代末期の正和4(1315)年の春日若宮神主祐臣(すけおみ)の「祭礼記」に「流鏑馬十騎、芳野二騎」と書かれており、興福寺の配下にあったことがうかがえる。
芳野城
芳野城は、東西300mの山の尾根を利用して造られ、標高466mの高さにある。そのため、狼煙(のろし)を上げる山城だったと考えられている。この城には、郭、土塁、堀切、虎口などがあり、3本の大きな堀切で、敵の侵入を防いでいた。また、芳野城の下を流れる芳野川を外堀としていたようで、東郷地区には、堀岡、堀内など「堀」のつく家がある。
普段、芳野氏は、ここから500m上に位置する下城(居館)で生活しており、有事のときにこの城を使っていた。そのため、下城から芳野城まで馬の通ることができる幅3mの道(一部分現存)があった。
芳野下城(ほうのしもんじょ)
芳野下城は、中世の宇陀を代表する武士のひとり、芳野氏の居館(やかた)。芳野氏は、主にここで日常生活を行い、有事のときには、ここから北西約800mのところにある芳野城(上城)に詰めていた。
尾根の東斜面には、「オヤシキ」とも呼ばれている平坦面があり、ここが居館の中心であった。また、尾根上には、郭や堀切、土塁なども残っている。
この下城北側の水田地帯には、東堀・西堀などと呼ばれているところもある。
主な取組
案内板の設置
地域住民でも芳野城の位置を把握しているものは少なく、多くの方から芳野城の場所を聞かれることがあった。そこで、会員みんなで、芳野城・下城の案内板を設置し、みんなに芳野城の場所と説明を行い、一人でも多くの方に登城していただくようにした。
登山道の整備
芳野城の場所を知っていても、登ったことがない方が大半であった。それは、登城する道が整備されていなかったためである。そこで、道のないところに道をつけるという作業から進めていき、今は主郭までの道を整備している。これからもより良くなるよう整備を進めていく予定。
学習会
芳野城や地元の歴史を知る取組として、講習会やバスツアーの企画をしている。このような学習会を通して、参加者は城の文化財的な価値の高さや地域の素晴らしさを再認識することができた。